【蕪村菴俳諧帖65】いのちの音

◆ぼうふらから長沙へ

玄関先や軒下に水甕を置き、布袋葵(ほていあおい)を浮かべ、 金魚や目高(めだか)を飼う。
近頃あまり見かけなくなった光景ですが、 水甕に淡水魚を飼うのは蚊の発生を防ぐためでした。
蕪村にこんな句があります。

○ぼうふりの水や 長沙の裏借家 蕪村

「ぼうふり」は蚊の幼虫孑孑(ぼうふら)の古名。
棒を振るような動きをするためで、棒振虫と呼ぶこともあります。
中国の地名「長沙(ちょうさ)」が唐突な気がしますが、 長沙は湖南省(こなんしょう)洞庭湖(どうていこ)の南にあって 屈原(くつげん)や賈誼(かぎ)の故事で知られるところ。

楚(そ)の屈原は国王の信任篤い政治家でしたが 讒言(ざんげん)によって宮廷を追われ、 この地で川に身を投げました。

前漢の賈誼は文帝に仕えていましたが元老と対立して失脚。
左遷された長沙で、湿気の多いこの土地では 長生きできないと嘆いたと伝えられています。
(『蒙求』賈誼忌鵬)

裏長屋でぼうふらの浮いた水を見た蕪村が どちらの人物を思い出したのかは不明。
しかし小さいぼうふらから中国大陸にまで 発想を跳ばすとは、さすが蕪村です。


◆生き物の音

蕪村には中国の故事を詠み込んだ句が多くて 理解に手間取ることがありますが、 このようなわかりやすい句もあります。

○古井戸や 蚊に飛ぶ魚の音闇し 蕪村

使われなくなった井戸の底からかすかな音が聞こえた。
蚊を捕ろうと魚が跳ねたのだろう。

古井戸の底という忘れられた世界から 思いがけないいのちの音が聞こえたのです。

魚の飛ぶ音が古井戸の暗く狭い空間に谺(こだま)する、 そのさまが下五の「音闇(くら)し」から感じられ、 印象深い句になっています。

ところで、蕪村は蚊に飛ぶ魚を見たわけではなく、 音を聞いて想像しています。
次の句も音を聞いての想像でしょう。

○戸に犬の寐がへる音や 冬籠 蕪村

戸のそばに寝ていた犬が寝返りを打ったのだろう、 ごとりと鈍い音がした、冬ごもりの夜。

冬のあいだ、寒さを避け家にこもって暮らす冬ごもり。
しんとした夜に一瞬聞こえた物音が 犬の寝返りの音らしいという、微笑ましい想像の句。
音が冬の静寂を際立たせ、ともに冬ごもりする犬への やさしい気遣いを感じさせます。

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