【蕪村菴俳諧帖62】梅もどき
◆聖人ゆかりの地で
蕪村は寛保二年(1742年)から翌年にかけて、
陸奥(みちのく)巡歴の旅をつづけていました。
立ち寄り先の詳細はわかっていませんが北陸越後も訪れたらしく、
このような句を詠んでいます。
○柿崎の小寺尊し 梅もどき
浄土真宗の開祖親鸞聖人(しんらんしょうにん)に ゆかりの寺院があります。
かつて親鸞の師法然(ほうねん)は専修(せんじゅ)念仏を広めて、 延暦寺など旧派仏教の反発を買っていました。
さらに一部の弟子が後鳥羽院の女房を無断で出家させてしまい、 これを契機に法然一派は厳しい弾圧を受けることに。
このとき何人もの僧が死罪や流罪に処せられており、 弟子だった親鸞は越後に流されています。
蕪村は柿崎で流謫(るたく)の身となった 聖人の苦難を偲んだのかもしれません。
小寺は聖人ゆかりの寺だったのでしょう。
◆小寺と梅もどき
さて、蕪村は下五に季語「梅もどき」を置きました。
おそらく小寺に植えられていたのでしょうが、
梅もどきならではの意味を込めたとも考えられます。
梅もどきは北海道を除く日本全域に自生する落葉低木です。
「擬(もど)く」は真似をすること。
しかし梅もどきのどこが梅に似ているのか、
諸説入り乱れて定説がありません。
花は小さくて目立ちませんが、
晩秋、木々が葉を落として色を失っていくなか、
梅もどきは小さい玉のような赤い実をつけます。
公園や民家の庭に植えられるのは、
冬の間の彩りを求めてのことなのでしょう。
実は春になるまで落ちませんから、
梅が咲くまでの、あるいは桜が咲くまでのあいだ、
見る人の心をなごませてくれます。
小さい寺もまた、梅もどきのように地味な存在。
目立つこともなく村や町に溶け込んでいます。
人々の日常に寄り添う小寺のありようは、
控えめな梅もどきのよう。
蕪村はそんなところにも尊さを感じていたのかもしれません。
○梅もどき折や 念珠をかけながら
供花(くげ)にするのか、梅もどきの枝を折る僧侶。
念珠(ねんじゅ=数珠)を手に掛けたままというのが
いかにも日常の一コマらしいですね。