【蕪村菴俳諧帖59】謎の埋れ木細工
◆名取川の埋れ木
陸奥巡歴の途次、蕪村は松島のある禅寺に身を寄せていました。
蕪村の著書『新花摘(しんはなつみ)』によると、
寺の長老(=住職)は一尺あまりの黒い板を一枚取り出し、
由緒来歴を語って蕪村にみやげとして与えたといいます。
歌人だった仙台藩の太守(たいしゅ=藩主)が
名取川を浚(さら)わせて埋(うも)れ木を手に入れた。
太守はその埋れ木で硯(すずり)箱や料紙箱を作らせ、
宮城野の萩の軸をつけた筆を添えて二条家に献上した。
この板はその残りで、またとない貴重な品だと。
板をもらった蕪村はそれを包んで背負い、
白石(しろいし=宮城県南端)まではなんとかたどり着きました。
しかし蕪村はその夜の宿の簀子(すのこ)の下に板を隠し、
そのまま旅をつづけたのです。
蕪村はその後結城(ゆうき=茨城県西部)の知人宅に立ち寄り、
居合わせた常盤潭北(ときわたんぽく)という俳人に
板を捨てたいきさつを語りました。
すると潭北は怒り心頭。
蕪村は常識はずれの無風流だと一喝し、
宿の名を聞きだして人を遣わしました。
板は無事に潭北の手に渡ったそうです。
蕪村は由緒があるという板に執着していませんでした。
蕪村はほかのお宝や骨董品についても
「何を証(あかし)となすべき」と記しており、
長老の話を信じていなかったのかもしれません。
◆何を証となすべき
長老は和歌の名門二条家を引き合いに出していますが、
『古今和歌集』には名取川の埋れ木を詠んだ歌があります。
○なとり川せゞのむもれ木
顕(あらは)ればいかにせんとかあひ見そめけん
(古今和歌集 恋 よみ人知らず)
名取川の浅瀬の埋れ木が顕(あら)わになるように、
人に知られたらどうするつもりで恋仲になったのだろうと、
恋の不安を詠んだ歌です。
また宮城野の萩は埋れ木以上にたびたび歌に詠まれており、
その萩を軸に筆を作ったという言い伝えも、
疑いの目で見れば、板を和歌や都の名家に結びつけようとした
作り話に思えてきます。
埋れ木細工は仙台の名産品です。
埋れ木は流木や倒木が水中、土中で炭化したもの。
樹木の化石とも呼べるもので、地殻変動によって作られ、
数百万年かけて真っ黒になります。
これを地層から掘り出して調度品や装飾品を作るのです。
埋れ木細工は伊達藩の武士山下周吉が文政五年(1822年)に
創始したといわれています。
蕪村が松島を訪れていたのは寛保二年(1742年)頃と推定され、
埋れ木細工誕生の八十年前ということになります。
周吉以前に忘れられた創始者がいたのかもしれませんが、
これも証(あかし)のない話。
諸説ありますと言うしかなさそうです。