【蕪村菴俳諧帖49】わが師の恩
◆旧師の励まし
蕪村の友人だった馬場存義(ばばぞんぎ:1703-1782)について
『続俳家奇人談』はこのように伝えています。
存義は馬場民右衛門といって三浦家に仕える武士でしたが、
40歳で隠居し青峨(せいが)という俳人の弟子となります。
その暮らしはきわめて貧しく、
雨が降ると家の中で傘をささなければならないほどだったとか。
そんな家に住んでいた存義もやがて俳家として名を成し、
ある日某大名から招待を受けます。
参上すると、かつて武士の時代に教えを受けていた
服部南郭(はっとりなんかく:1683-1759)と同席することに。
南郭は高名な漢詩人・儒学者であり、
江戸在住時の蕪村が講義を受けていたことでも知られます。
存義は漢詩や儒学を捨てて俳諧に転じたことを詫びました。
すると南郭、にっこり笑って
存義が俳諧の道に入ったのは正しかったと言います。
あなたが儒学を学んでも朱子(しゅし)に勝ることはなく、
漢詩を学んでも東坡(とうば)を超えることはできず、
和歌の道では定家、家隆(いえたか)にはかなわないでしょう。
しかし俳諧に上達するならば、宗祇(そうぎ)や守武(もりたけ)から
貞徳(ていとく)、芭蕉に至る流れに名を残すことでしょうと。
南郭は柳沢吉保(よしやす=将軍綱吉の寵臣)に歌人として召抱えられ、
荻生徂徠(おぎゅうそらい)門下となって漢詩・儒学を学んだ人物。
南郭先生と呼ばれて世の尊敬を集めていた旧師から
親しく激励の言葉をかけてもらった存義、
いっそうの精進に励んだそうです。
◆温かなまなざし
存義の作品はあまり伝わっていませんが、 鬼貫に通じる平明温雅な作風だったようです。
○紙雛や こける時にも女夫連
江戸時代、きらびやかな雛飾りはまだ富裕な階層のものでした。
貧しい庶民は紙の人形を棚に乗せて質素に祝ったのです。
あまりにも軽い紙雛は、倒れるときにも
男雛と女雛、つまり女夫(めおと)が一緒。人形に託して
存義は庶民の暮らしぶりをそのまま詠んでいるように思えます。
○苗代や 嫁は五月があたり月
田植えに備えて稲の苗を育てておく苗代(なわしろ)。
田植えには近隣や親戚の手伝いが来ますが、
苗代づくりは夫婦の仕事です。
嫁が働き者かどうかは、そのときによくわかるともいわれました。
農家の主婦は五月が忙しかったのですね。
○頃の来て 奥歯にものや時鳥
時鳥(ほととぎす)は夏を告げる鳥。
その鳴き声を合図に田植えを始める地方も多かったそうです。
ところがその頃(=季節)が来て鳴き始めた時鳥が、
練習不足なのか、奥歯に物がはさまったような
ぎこちない鳴き方をしているのです。