【蕪村菴俳諧帖48】吉田兼好イケメン説

◆蕪村は兼好がお好き

企業や学校の制服の衣替えは、今では6月1日が一般的なようです。
蕪村の時代は冬から夏への衣替えは4月1日でした。
旧暦ですから現在の5月はじめくらいに相当します。

○兼好は絹もいとはじ 更衣 蕪村

蕪村が夏の更衣(ころもがえ)に詠んだもの。
吉田兼好はものにこだわらない人だったから、 夏の衣(きぬ)が絹でも木綿でも気にしないことだろうと。

江戸時代はたびたび倹約令が出され、 庶民は麻や木綿を着ることが奨励されていました。
蕪村はそれも意識していたのかもしれません。

○花の幕 兼好を覗く女あり 蕪村

これも兼好。幕を張りめぐらして花見の宴、 幕の隙間から中をのぞく女がいるのは 兼好がイケメンだから?
当時は実際に吉田兼好イケメン説があったそうです。
『徒然草』には兼好が女性の好みを述べた段があり、 家集『兼好法師集』にも恋の歌が少なくないので、 蕪村はそれらを踏まえているのでしょう。


◆身近な古典だった徒然草

出版文化華やかなりし江戸時代、 流行作家の新作が次々と店頭に並び、 人々は競うようにそれを買い求めていました。

一方で古典文学も愛好されていましたが、 すらすら読める人は当時も少数派。
解説本やダイジェスト本がよく売れたそうです。

また都市部には現在のカルチャースクールのような講座があり、 『源氏物語』はじめさまざまな古典を学ぶことができました。
『徒然草』もそのようにして広まり、 身近な古典として愛読されていたのです。

○兼好はしねといふたに 年忘 支考

『徒然草』に「命長ければ辱(はじ)多し 長くとも四十(よそじ)に足らぬ程にて死なむこそ めやすかるべけれ」とあるのを踏まえた句。
兼好が死んだほうがましと言った四十路になり のんきに年忘(としわすれ=忘年会)などやっている自分は、 この先恥の多い人生を送るのだろうかというのでしょう。

○兼好も莚(むしろ)織けり 花ざかり 嵐雪
○銭ほしとよむ人ゆかし としのくれ 嵐雪

兼好が筵を織っていたとは初耳ですが、当時発刊された伝記に 兼好は阿倍野(あべの)に住んでいて、弟子とともに筵を織って 生活の糧にしていたと書いてあったのだとか。
この伝記も多くの人に読まれていたそうで、 信憑性はともかく、兼好の人気がうかがい知れます。

次の句の「銭(ぜに)が欲しい」というのは実話。
兼好が友人に米と銭を無心した歌が伝わっているからです。

年の暮れに銭を貸してくれといってくる人はいないものかと 嵐雪が思ったのにはわけがあります。
かつて芭蕉が発句で、借金を申し込んできたことがあったのです。
今となってはそれも懐かしい思い出。
この句には亡き師への思いが込められていたのですね。



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