【蕪村菴俳諧帖47】役者から皇族まで

◆歌舞伎座こけら落とし

この春、歌舞伎座の柿落としが大きなニュースになりました。
どのテレビ局でも頻繁に採り上げていましたが、 「柿」という漢字を使わず ひらがなで「こけら」と表記している局が多かったようです。
「柿」は難読漢字なのでしょう。

「柿」は「木屑」とも書いて、木のくずのことなのだとか。
柿落としは建物の完成後に屋根や床に残った木のくずを払い落とすこと。
それが転じて、新築や改築を行った劇場で最初に行う興行を 柿落としと呼ぶようになったそうです。

ところで、
歌舞伎といえば蕪村はじめ多くの俳人が好んだことで知られますが、 歌舞伎役者にも俳諧をたしなむ人が少なくありませんでした。

旗本だった根岸鎮衛(ねぎしやすもり)の書いた 風聞集『耳嚢(みみぶくろ)』には、 当時の人気役者の俳号がいくつか記されています。

三都随一の女形(おやま)と謳われた 初代瀬川菊之丞(きくのじょう)の俳号は路考(ろこう)でした。
二代目は超イケメンだったので王子路考と呼ばれ、 本物の女性よりしとやかだったという三代目は仙女路考。

菊之丞は役者絵(←後のブロマイドに相当)がよく売れ 現代にまで伝わっているので、ご覧になった方もあるでしょう。
ほかには初代坂東彦三郎が薪水(しんすい)、
二代目市川団十郎が柏莚(はくえん)、
三代目沢村長十郎が訥子(とつし)、
三代目市村羽左衛門が何江(かこう)、など。

どのような作品を遺したかはわかりませんが、 俳諧がさまざまな人々に愛好されていたことがうかがえます。


◆後水尾院の発句

上記『耳嚢』によれば、 高貴な方々も俳諧がお好きだったようです。

明正(めいしょう)天皇に譲位して仏道に励んでいた 後水尾(ごみずのお)院が俳諧に興味をもち、 ある高名な俳人を御前に呼んで問いました。
下々の者が俳諧というものに夢中になっているというが、 それはどのようなものかと。

俳人が例を一つ示すと、院は二つの句を詠んで こういうふうに作ればよいのかと聞いたそうです。

○干し瓜や 汐の干潟の捨小船(すておぶね)
○うじなくて味噌こしに乗る嫁菜哉

干し瓜の句は二つに割って干した瓜を小船に見立てたもの。
次の句は氏(うじ=立派な家柄)でないのに 玉の輿(こし)に乗る嫁がいるけれど、 嫁菜(よめな)は味噌漉しのざるに載せられていると戯れたもの。

後水尾院は優れた歌人として知られますが、 この二句はどちらも即興で詠んだとは思えない出来映えです。
俳人に例を示させたのはじつはおとぼけで、 ひそかに俳諧を学んでいたのかもしれません。



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