【蕪村菴俳諧帖42】不夜城の俳諧師
◆寺住まいから島原へ
蕪村より七歳年上の友人で
蕪村と並ぶ天明俳諧の中心人物とされる炭太祇(たん たいぎ)。
出身地ははっきりしませんが、40歳のころ京に上り、
出家して大徳寺に住み着きます。
大徳寺は洛北紫野(むらさきの)に今も広大な境内をもつ古刹。
かの一休宗純が住持を務めたことでも知られています。
太祇はここに真珠庵と称する庵を結び、
静かに禅と俳諧の日々を送っていた…はずでした。
しかし出家後間もない宝暦4年(1754年)に、
太祇は突如寺を出て島原の遊郭に移り住みます。
遊里で放蕩をつづけた男が思うところあって寺へ、
というのならわかりますが、太祇は逆のコースです。
考えられるのは、門弟のひとり呑獅(どんし)が
妓楼桔梗屋(ききょうや)の主人だったことから、
宗匠に島原に住むように勧め、支援したのではないかということ。
太祇の庵は島原を不夜城と呼ぶのにちなんで不夜庵といいました。
太祇はここで俳諧三昧に入ると称して
たびたび17日間の禁足(きんそく=外出しないこと)を行なったとか。
禁足は庵に籠って句作に専念することをいいますが、
日数はもちろん発句の十七字にかけたシャレでしょう。
◆得意は人事の句
正岡子規は明治32年の『ホトトギス』に
『俳人太祇』と題する一文を寄せ、その無名を嘆いています。
子規は蕪村についても俳人としての無名を嘆いたわけですが、
『太祇句選』を編集したのはほかならぬ蕪村でした。
○やぶ入や 琴かきならす親の前
薮入りで帰ってきた娘が親に琴を聞かせています。
奉公人に琴を習わせるほどの主家の豊かさ、やさしさと、
娘の恵まれた労働環境、親の安心と満足まで、
少ない文字数で余すところなく伝わってきます。
○取り迯(にが)す隣の声や 行く螢
隣家からホタルを取り逃がした子どもの声が。
声のする方を見ると、青白い光がすうっと夜空に飛んでいきます。
何気ない日常の何気ない一瞬が愛おしく感じられる一句。
○寐よといふ寐覚の夫(つま)や 小夜砧
夜なべで砧(きぬた)を打つ妻に、目覚めた夫が声をかけています。
子規は十七文字に話し言葉を入れるのはむずかしいが
太祇はそれが実に巧みだったと誉めています。
しかし読者からすれば、作者の温かいまなざしが何よりの魅力。
風景や花鳥でなく人間に関する内容を詠んだ句を人事といいますが、
太祇は人事に優れた作品が多いようです。