【蕪村菴俳諧帖38】我は朴の木

◆蕉門に廉潔の士あり

以前に松木淡々(まつきたんたん)を紹介しましたが、 今回は松倉嵐蘭(まつくららんらん:1647-1693)。
どちらの名前もパンダふう。しかし親戚ではありません。

淡々が其角の弟子だったのに対し、嵐蘭は芭蕉の弟子。
性格も淡々とはちがって真面目そのものだったようです。

嵐蘭は松倉盛教といって板倉家に仕える武士でした。
しかし主君をいさめて容れられず、44歳で致仕。
その後ひっそりと江戸浅草に住んでいましたが、 47歳の8月、鎌倉に月を見に行くといって出かけ、 帰路に病を得てそのまま亡くなってしまいました。

芭蕉は嵐蘭に寄せる誄(るい=生前の功績を称える詞)を作っています。
その中で芭蕉は「嵐蘭は義を骨として実を膓(はらわた)とし、 老荘を魂にかけて風雅を肺肝の間にあそばしむ」と 清廉潔白で風雅な人柄を回顧しています。

誄によれば、嵐蘭は亡くなる年の正月、 幼子の手をとって芭蕉の庵を訪れ、
この子に雅号をつけて欲しいと頼んだそうです。
芭蕉は王戎(おうじゅう=竹林の七賢の一人)から一字とって 「嵐戎」と名づけてやりました。
嵐蘭と芭蕉との交流は19年に及んでいました。
わずか7歳の子に思いを残し先立ってしまった嵐蘭に 芭蕉は万感の思いを込めて追悼の辞を贈っています。

◆やさしさをユーモアにつつんで

嵐蘭の句は平明なものが多いようです。
いくつか見てみましょう。

○初市や 雪に漕ぎ来る若菜船

年の初めの市が立ったのは川沿いの地だったのでしょうか。
雪の中を若菜を積んだ船がやってきます。
静けさの中に活気をとり戻していく新年の生活が描かれています。

○子や泣かん その子の母も蚊の喰はん

こちらは夏の句。母子ともに蚊に食われてしまっているようですが、 この句、どこかで見たような気がしませんか。

そう、『万葉集』にある山上憶良(やまのうえのおくら)の歌 「憶良らは今は退らむ子泣くらむ それその母も吾を待つらむぞ」を もじっているのです。それがわかると、 蚊に食われる妻子に向けられた作者のまなざしが とてもやさしいものに思えてきます。

○渠何を人目にうらみ 朴の木ぞ

「渠」は「かれ」で「彼」に同じ。
「朴の木(ほおのき)」は日本固有の樹木で、 椀や下駄などの木工品に用いられ、樹皮は薬に利用されます。
今でも山中に卵形の大きい葉をつけた大木を見ることがあり、 夏には花の芳香を楽しむこともできます。

そんな朴の木のように役立っていた自分が なぜ人から白い目で見られなければならないのか。
嵐蘭の無念さがにじむ一句です。



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