【蕪村菴俳諧帖31】談林俳諧
◆笑いへの回帰
松永貞徳の貞門俳諧が俳壇を支配する中、反逆者たちが現れました。
中心人物は大坂天満宮の連歌所(れんがどころ)宗匠、
西山宗因(そういん:1605-1682)。
あの西鶴が門下におり、若き松尾芭蕉もメンバーの一人でした。
かれらの不満というのは、貞門流は滑稽さが足りない、
和歌や連歌の影響を受けすぎている、というもの。
では、かれらはどういう句を作っていたのでしょう。
たとえば宗因の代表作とされるこの作品。
○里人の渡り候ふか 橋の霜
早朝の光景でしょうか、橋に降りた霜に足跡があったのです。
これは能の『景清』にある問答の部分
「いかにこのあたりに里人のわたり候ふか」をそのまま使ったもの。
そこに「橋の霜」を下の句としてつけたため、「わたる」の意味が
「居る」から「渡る」に変わってしまっています。
有名な能の一場面かと思ったら最後にびっくり、
田舎の橋の句だったのか、というわけ。
○塩にしても いざ言づてん都鳥
こちらは『伊勢物語』の和歌「名にし負はば」を踏まえたもの。
しかし都鳥を(長持ちするように?)塩漬けにしてでも
都にことづててやりたいとは、おふざけが過ぎるような…。
じつはこの句、芭蕉35歳頃のもの。
後年の作品とは似ても似つかないひょうきんさに驚きますが、
こういう発句が一世を風靡していた時代があったのです。
◆束の間の栄華
宗因たちの流派は談林(だんりん)俳諧と呼ばれます。
談林は本来「壇林」と書いて、僧侶が学問や修行をする学寮のこと。
しかし江戸の田代松意(しょうい:生没年不詳)が談林軒を名乗り
自分たちのグループを談林と呼んだことから、
談林俳諧の呼称が定着していきます。
江戸に下向した折、松意らに招かれて
《江戸十百韻(とっぴゃくいん)》に参加した宗因は、
このような発句を遺しています。
○されば爰(ここ)に談林の木あり 梅の花
談林俳諧の隆盛を祝うかのような一句です。
軽すぎる、ふざけ過ぎると批判されながらも
談林俳諧は50年ほどつづいた貞門俳諧にゆさぶりをかけ、
急速に支持者を増やして、ついには主役の座を奪ってしまいます。
談林の時代はしかし、
10年ばかりであえなく終焉を迎えます。
宗因は世を去り、西鶴は小説家に転向していきました。
談林の息の根を止めたのは、
かつて談林に夢中になっていたはずの芭蕉でした。
芭蕉は「談林はもう古い」と感じたらしく、
滑稽の追求から離れて独自の蕉風俳諧を確立していきます。
否定はしたものの、談林は芭蕉にとって貴重な修行の場でした。
芭蕉は「上に宗因なくんば我々がはいかい今以て貞徳が涎をねぶるべし。
宗因は此道の中興開山也」と書き記しています。
もし宗因という先輩がいなかったら、
わたしたちの俳諧は依然として貞徳の影響下にあっただろうと。
芭蕉は談林で発想の自由さ、表現の多彩さを学んだと思われます。
また貞門も談林も古典への深い造詣がベースにあり、
それは蕉風俳諧にも共通しています。
貞徳や宗因の遺産は受け継がれたのです。
※宗因など江戸俳諧の笑いについては
バックナンバー【蕪村菴俳諧帖6】をご覧ください。