【蕪村菴俳諧帖21】句を吐く赤穂浪士

◆俳人大高源五


赤穂浪士の大高源五(おおだかげんご:1672-1703)は 水間沾徳(みずませんとく)門下の俳人でもあり、 子葉(しよう)の号を持っていました。

赤穂藩の武士には俳諧をたしなんでいた人が多いようですが、 後の世によく作品が採り上げられるのは子葉ただひとり。
おそらく子葉だけが群を抜いていたのでしょう。

○牛は寐て車は立て 花見哉

○蝿うちや 多くの敵の玉まつり

花見の句。
花でもなく人でもなく、 人を花まで運んできた牛と車に目をやる作者。
その一角だけが静かだったのですね。

次の句。
魂祭(たままつり)はお盆のこと。
蝿を打ち落として、敵の魂の供養だというユーモア。
このとき、後にあだ討ちをすることになるとは、 考えてもみなかったと思われます。
討ち入りの前に師の沾徳に宛てた手紙には こういう句が書き込まれていました。

○山を抜くちからも折れて 松の雪


『史記』を出典とすることわざ 抜山蓋世(ばつざんがいせい)を用いたもの。

山を引き抜こうかというほどの力と 世を蓋いつくそうかというほどの気力が 折れてしまったというのです。
「松の雪」は重圧をあらわしているのでしょうか。

◆貞佐走る

子葉たちの友人に
桑岡貞佐(くわおかていさ:1672-1734)という俳人がいました。
子葉のほか同じ赤穂の春帆(富森助右衛門)、白砂(吉田忠左衛門)、 竹平(神崎与五郎)ととくに親しかったといいます。

元禄12年3月、浅野家の事件で家臣たちは散り散りになってしまい 消息もわからなくなっていたのですが、年の暮れになって 貞佐は両国でばったり春帆に出会います。

そのとき春帆は
最近、霰(あられ)の句を作りましたよといって このような句を教えました。

○飛んで入る 手にもたまらぬ霰かな

数日後、貞佐が朝湯に浸かっていると、 銭湯に来る人来る人が口々に 昨夜浅野家の旧臣が吉良邸に討ち入り、大勢を殺害して 品川方向に引き揚げていったと話しています。
春帆の句はそういう意味だったのか。
貞佐は風呂を飛び出すと着の身着のまま酒屋に行き、 持ち合わせがなかったので羽織を形(かた)に酒樽を買うと、 急いで泉岳寺(せんがくじ)に向かいました。

「中に富森殿はおられるか、大高殿はおられるか、 粗酒を差し上げたい。会わせてくださらぬか」
寺の門は警護の武士に閉ざされていましたが、 その中に貞佐を知る人があり、熱意に感じ入って 酒樽を受け取ってくれました。

春帆の句は、みずから危険に飛び込み はかなく消えていく霰のようなわが身を詠っていたのでしょう。

ご参考までに、赤穂の武士たちのうち 俳号のわかっている人を挙げておきます。

・可笑 大石良雄
・春帆 富森助右衛門
・涓泉 萱野三平
・竹平 神崎与五郎
・放水 岡野金右衛門
・禿峰 茅野和助
・白砂 吉田忠左衛門
・漸之 小野寺幸右衛門
・如柳 間十次郎




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