【蕪村菴俳諧帖15】俳人西鶴

◆速吟を競う矢数俳諧

江戸時代を代表する作家、井原西鶴(1642-1693)が 最初は俳諧師だったのをご存知でしょうか。
処女小説『好色一代男』を発表して人気作家となったのは 天和2年(1682年)40歳のとき。
それまでは西山宗因門下の俳諧師だったのです。

俳諧の活動を本格化したのは30歳くらいからとされ、 33歳のとき、亡き妻の追善のために 「独吟(どくぎん)一日千句」を興行。
ひとりで1日に1000句を作るというもので、 このように短時間に多くの句作をこなすのを速吟と呼びます。

西鶴は2年後に「西鶴俳諧大句数(おおくかず)」で1日1600句を、 その3年後には「西鶴大矢数(おおやかず)」で4000句を達成します。
寝ずに吟じたとして約20秒で1句というスピード。
どうしてそんなに速吟にこだわったのかというと、 矢数俳諧(やかずはいかい)に勝利するためでした。

これは京都の蓮華王院三十三間堂で行われていた 「通し矢」の競技をまねて発案されたもので、 夕方から翌日夕方までの24時間に どれだけ多くの句が作れるかを競いました。

西鶴の記録1600句は大淀三千風(みちかぜ)の2800句に破られ、 4000句の記録も10000句以上作る人が現れて破られてしまいます。
満を持して望んだ貞享元年(1684年)6月5日、 西鶴は摂津住吉神社で23000句の大記録を打ち立てます。

しょうもないことを競ったものだと思いますが、 矢数俳諧を記録した本はよく売れたようです。
ただ大量生産を競う速吟から 文芸として価値のあるものが生まれるはずもなく、 軽薄、放逸との批判は避けられませんでした。

◆西鶴の詩情

粗製濫造の句を紹介してもつまらないので、 詩情の感じられるものをいくつか挙げておきましょう。

○長持に春かくれゆく衣がへ

旧暦4月1日の衣替え。
箪笥が普及していなかったころは 長持や葛籠(つづら)に衣服をしまっておきました。
着物とともに春が長持に隠れていき 夏がやってくるというのです。

○とめ山の檜原の奥に よきの音

「とめ山」は「留山」と書いて、狩猟や伐採が禁じられた山を指します。
その檜林の奥からよき(斧)の音が聞えたというのですから 読んでいるこちらもドキリとさせられます。

○姥捨や 月は浮世にすてられず

信州姨捨(おばすて)は古来月の名所として知られ、棚田に映る月は田毎(たごと)の月と呼ばれます。
老人は捨てられても、名月ははかないこの世に捨てられない。
ちょっとブラックな表現で月を讃えた一句。

○大晦日 定めなき世のさだめ哉

吉田兼好は『徒然草』第七段で 「世は定めなきこそいみじけれ」といい、 一年も落ち着いて過ごせば十分長いものだと記しています。

その一年を終えるにあたって、西鶴は とどめることのできない時の流れを「さだめ」と感じ、 静かにみずからを振り返っているようです。



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