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  【蕪村浪漫11】 結城の狸
 

 

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◎蕪村の関東修行
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初回にも書きましたが、若き蕪村は江戸におもむいて
夜半亭宋阿(やはんていそうあ)のもとで俳句を学んでいました。
しかし蕪村が二十七歳のとき宋阿が亡くなってしまい、
蕪村は下総結城(しもうさゆうき=茨城県結城市)に向かいます。

そこには師匠宋阿の門人たちが活動していました。
蕪村は結城でかれらの世話になりながら、
句集の編集にたずさわったり、
大和絵(やまとえ)ふうの絵や漢画ふうの絵を描いたりしています。

 

現在、結城市内には蕪村の句碑があちらこちらに建っています。
結城城址の公園にあるのは

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○ゆく春や むらさきさむる筑波山
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夏が近づいて筑波山の色が紫から緑へと
変わりつつあったのでしょう。

やはり句碑のある弘経寺(ぐぎょうじ)は
蕪村が数年を過ごした寺で、ふすま絵なども遺されています。

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○肌寒し己が毛を噛む木葉経
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この寺には狸(たぬき)が僧侶に化けて住んでいたという伝説があり、
蕪村はそれを句に詠みました。

木葉経(このはきょう)は木の葉に書いた経文のこと、
己が毛(おのがけ)は自分の毛ということで、
筆が狸の毛で作られていることを指します。

寒さで固くなった穂先を噛んでほぐしながら、
狸のお坊さんは修行に励んでいたのです。

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◎俳詩の創造
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法頂山妙国寺(みょうこくじ)の詩碑には、
萩原朔太郎が明治の新体詩のさきがけとして評価した
俳詩『北寿老仙をいたむ』が刻まれています。

北寿老仙は早見晋我(はやみしんが)という下総の酒造家のこと。
晋我は結城の中心的な俳人のひとりでした。

妙国寺にはその墓があり、この詩は
晋我の三十三回忌に合わせて書かれたものです(異説あり)。

〈北寿老仙をいたむ〉

君あしたに去りぬ ゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる

君をおもふて岡のべに行きつ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき

蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲きたる
見る人ぞなき

雉子(きぎす)のあるか ひたなきに鳴くを聞けば
友ありき河をへだてゝ住みにき

へげのけぶりのはと打ちちれば 西吹く風の
はげしくて 小竹原(をざさはら)真すげはら
のがるべきかたぞなき

友ありき河をへだてゝ住みにき けふは
ほろゝともなかぬ

君あしたに去りぬ ゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる

我庵(わがいほ)のあみだ仏 ともし火もものせず
花もまゐらせず すごすごと彳(たたず)める今宵は
ことにたふとき

雉(きじ)のしきりに鳴く声でさえ
蕪村には亡き知己の声に聞こえたのでしょうか。

川をへだてて住んでいたのは雉なのか蕪村と晋我なのか、
へげのけぶり(変化の煙?)は雉を撃つ鉄砲の煙か、
それとも亡き晋我の葬送の煙か、
空想と現実が交錯して不思議な感興を誘います。

蕪村の俳句を絶賛した正岡子規は
俳詩についてはあまり評価しませんでした。

朔太郎が『郷愁の詩人 与謝蕪村』で
「浪漫的」「ハイカラ」と評したのが、
最初の賞賛だったかも知れません。




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